新入社員はつらいよ

私は、昭和42年に大阪府豊中市に生まれました。そして、小中学校を公立で過ごし、関西大学第一高等学校に進学しました。あの関西大学の付属高校です。でも、内部推薦試験に合格できず、2年ほど浪人、その後、「私に入学してもよい」と言ってくれた唯一の大学、甲南大学に進学しました。

 社会人として、まず、日興證券株式会社(現、SMBC日興証券株式会社)に入社し、岡山支店に配属されました。何のことも無いのですが、当時、岡山に配属されたのは、大阪生まれの大阪育ちの私のとっては、相当のショックだったのですね。入社後、約1ヵ月の研修の後、配属発表があるのです。学校の卒業式で卒業証書を頂くときみたいに、順番に社長から辞令を頂くのです。私の順番で、社長が「岡村晴雄君、岡山支店営業課の配属を命ず」と言われたのです。思わず、膝が落ちましたね。世間知らずの私としては、そんな程度でも、ショックでした。しかし、その程度のショックは、その後の人生にとって、何とも無いことだったのですね。もっと、辛いことが、後々、私の身に次々と起こったきました。

 岡山支店に配属されると、いきなりカバンと名刺とパンフレットを渡されます。そして、「行ってらっしゃい」と外に放り出されるのです。パンフレットの中身も株のことも何もわかりません。でも、「はい、行ってらっしゃい」で、1日が始まって、「お帰り」で1日が終わるのです。

 私は、外に出ると1件1件、ピンポーンって感じで。住宅街をまわって行くのですね。ほとんど、すべて「うちは関係ありません」って言われます。何しろ、バブルが崩壊した直後で、世間が、株でボロボロになっていた時です。たまに出てきても、「お前らのせいで、大損してるんや」って、怒鳴られるのです。他店の同期などは、会社名を名乗った瞬間に灰皿が飛んできたりしていました。そういった社会状況の中、世間知らずの私は、恐怖と少しばかりのエリート意識の中で、社会人生活を始めたのです。

 営業を始めて、1週間で10万円の中国ファンドが新規で取れました。90歳近いあばあさんからです。今でも、顔も名前も家も覚えています。多くの先輩から「すごいね」と褒められたきり、約2ヶ月間、お客が取れませんでした。来る日も来る日も、課長から嫌味を言われます。そして、出てきた指示が、「個人はもういい。法人に飛び込んで、1日50枚の名刺を貰って来るまで、帰って来るな」って言われました。そもそも、岡山の中心部にいったい何件の法人があるのでしょうか。自転車でいける範囲です。せいぜい、2,000〜3,000件程度でしょう。1日目は、ビルをまわって、何とかなりました。しかし、2日目、3日目、4日目ともう限界です。まわる会社がないんですね。そして、最後は、泣き落としです。「どうしても、1日50枚名刺を持って帰らないと駄目なんです。もう、2度と来ません。電話もしません。手紙も書きません。だから、名刺を1枚下さい。」ってなるのです。それでも、限界です。

 そして、考えました。一気に名刺を集める方法を。朝、出社の前に、卸売り市場に行くのですね。そこには、小さな商店が所狭しと並んでいます。あっと、言う間に50枚が溜まります。これで、3日間は大丈夫でした。すると、出社した時には、すでに仕事が終わっているです。ちょっと、嬉しかったですね。でも、それでも限界がきます。そして、50枚を持って帰れない日々になるのです。8時過ぎるともう、諦めるしかありません。課長に嫌味を言われます。ちょっとでも言われないように、工夫するのですね。会社に入る前に、どんどん運動をするのです。そして、スーツまで汗びっしょりにするのです。いかにも努力してきたように。

 しかし、お客様はほとんど出来ませんでした。そもそも、「2度と」って行っているんですからね。無理な話です。見込み客リストにもなりません。唯一、卸売り市場以外はね。あそこだけは、きっちりと名刺を頂いておりますから、フォローも出来ます。また、卸売り市場では、毎日、魚屋、野菜の相場をはっているので、仕事同様、株という相場が好きなのですね。つまり、今までと違い、株をやっている人を見つけたのです。だから、営業が出来るのですね。そこで気が付きました。

 

さて、全くの新人でした私が、ちょっとだけ「できる営業」になるきっかけをつかみました。それはどんなことでしょうか? 次のページで明かされますよ!

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